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1875年のマルクス
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フルネーム |
カール・ハインリヒ・マルクス Karl Heinrich Marx |
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生誕 |
1818年5月5日![]() |
死没 |
1883年3月14日(満64歳没)![]() |
時代 | 19世紀の哲学 |
地域 |
西洋哲学 ドイツ |
学派 |
唯物論 科学的社会主義、共産主義 若いころはヘーゲル左派 |
研究分野 | 自然哲学、歴史哲学、政治哲学、科学哲学、経済学、各国の近現代史、政治学、社会学 |
主な概念 |
史的唯物論 剰余価値 労働者の搾取、階級闘争 『資本論』 科学的社会主義の共同創設者(フリードリヒ・エンゲルスと共に) |
署名 |
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マルクス経済学 | |
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生誕 | 1818年5月5日 |
死没 | 1883年3月14日 |
研究分野 | 資本主義経済の分析 |
影響を 受けた人物 |
アダム・スミス、リカード ほか |
影響を 与えた人物 |
マルクス経済学者、シュンペーター、他多数 |
実績 | マルクス経済学・科学的社会主義の創始者 |
カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 -1883年3月14日)は、ドイツの哲学者、思想家。政治思想史、経済思想史の上では、19世紀以降の共産主義運動・労働運動の理論的指導者、経済学者として知られる。20世紀において最も影響力があった思想家の一人とされる[1]。
親友にして同志のフリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。
マルクスの経済学批判による資本主義分析は主著『資本論』に結実し、『資本論』に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。
目次[非表示] |
マルクス主義 |
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共産主義 |
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カール・マルクス(以下、マルクス)は、1818年5月、プロイセン王国治下のモーゼル河畔にあるトリーアにて、父ハインリヒ・マルクスと母アンリエットとの間に生まれた。父ハインリヒの家系は、代々ユダヤ教のラビ(聖職者で神学者)を務める家柄であったが、父ハインリヒ自身は、自由主義的な啓蒙思想をもち、1812年からフリーメーソンの会員[2]でもあった弁護士であり、マルクスが生まれる前に、ユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した。母アンリエットもユダヤ教のラビの家系なので、マルクスの出自はユダヤ系ドイツ人といえるが、マルクス自身は6歳の頃に父親と同じくプロテスタント(キリスト教)の洗礼を受けているので、ユダヤ教徒ではない[3]。
1830年、マルクス12歳のとき、トリーアの名門ギムナジウムに入学。マルクスの入学したギムナジウムは開明的な校風で、校長が熱烈なルソーの支持者であった。マルクスの高校卒業論文(哲学)の主題は、「職業の選択にさいしての一青年の考察」であった。
1836年、マルクス18歳のとき、姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。その後ボン大学に学び、後にベルリン大学に入学し、ヘーゲル左派の影響を受ける。さらに、1841年にはイエナ大学へ入学。学位請求論文は『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』であった。この学位請求論文により、マルクスは哲学博士となった。
1842年、マルクス24歳のとき、ケルンで創刊されたブルジョワ急進主義の「ライン新聞」主筆を務める。この頃に生涯の友人にしてマルクス最大の支援者となるフリードリヒ・エンゲルスとの出会いを果たしている。マルクスは「ライン新聞」の編集長をしていたが、ほどなく対ロシア政府批判のために受けた同新聞社への弾圧により、1843年3月に失職した。
1843年6月、マルクス25歳のときにイエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚。11月にパリへ出発、マルクスは友人とともに、パリで『独仏年誌』を出版した。なお、この時期マルクスは、ハインリッヒ・ハイネとの知遇を得て交友を始めることとなる。しかしながら、『独仏年誌』は2号で廃刊となり、さらにプロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけにより、1845年1月にはパリからベルギーのブリュッセルへ追放を余儀なくされた。
1846年、マルクス28歳のとき、在住地のブリュッセルにてエンゲルスとともに「共産主義国際通信委員会」を設立、さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに「共産主義者同盟」の結成に参画することになり、『共産党宣言』を起草した。『トリーア新聞』を機関紙としていた「真正社会主義者」カール・グリューンと論戦をしたのもこの頃である。しかしながら、「共産主義者同盟」内の齟齬に起因する内部争いにより、マルクスらは組織内部の少数派に転落、さらには1848年2月のフランス二月革命のため3月3日に警察に夫婦とも抑留され翌日パリにもどる。翌年にはエンゲルスの招きに応じ、1849年8月末、ロンドンに亡命した。
マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、ロンドンで実父が所有する会社に勤めており、資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。1851年からマルクスは「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、1862年まで500回以上寄稿した。ロンドンで結成された第一インターナショナルに参加、バクーニンと激しく論争した。
ロンドン亡命以降、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、経済研究と膨大な量の資料収集を行った。マルクスの『資本論』は、この長年にわたる経済研究から生まれたといっても過言ではない。
1867年4月12日、『資本論』第一巻を刊行。資本の生産過程に関する研究成果の集大成であった[4]。
1871年3月26日、マルクス53歳のときにパリ・コミューンが発生。わずか72日間の短期間ながらも、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生した。このときマルクスは『フランスの内乱』と題する執筆をおこない、この政権を支持した。同時に、「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを批判もした。
ロンドンでのマルクス家の生活は裕福で、メイドが複数いた。ひとりのメイドはマルクスの子供を産んだが、妻の怒りを避けるために、エンゲルスが自分の子供として認知した[5]。
1871年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『資本論』の執筆活動に専念し、数百にも及ぶレポートを書きつづけた。マルクスは、亡命地ロンドンにいながら、自らの理論体系の構築を行うとともに、ドイツ、フランスの共産主義運動への助言をおこない、精神的支柱であり続けた。1881年12月2日妻イエニー死亡。
1883年3月14日、亡命地ロンドンの自宅にて、肘掛け椅子に座したまま逝去した(65歳)[6]。
マルクスは、彼が亡くなる直前まで精力的に執筆活動を行っており、彼の元には膨大な草稿が遺されていた。そして彼の没後、遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版、さらに1894年には、第三巻の編集・出版が行われた。
「マルクス主義」も参照
詳細は「唯物史観」を参照
マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構(社会的存在)を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(意識)を規定するとしている。したがって、人間の意識と社会的存在との関係は、人間の意識がその時代における社会的存在(物質的生活の生産様式)を規定するのではなく、逆にその時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった、同時代の意識そのものを規定するという関係が成立することになる。 人間の社会的存在を土台にして、その時代における意識を規定するという関係から、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとされた。このようなマルクスの歴史観を唯物史観(唯物論的歴史観)という。マルクスの言葉では以下のとおりである。
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
— 『経済学批判 序言』
若いころ、マルクスは、人間の作り出したシステムや生産諸関係が人間の手を離れ、逆に人間を敵対的に抑圧する状態、すなわち疎外が発生することを指摘した。(「疎外」という言葉はヘーゲル哲学でよく用いられる。)疎外の形態はさまざまであり、商品や貨幣が人間を支配し労働本来のよろこびが失われる労働の疎外、生産における人間と機械の地位が逆転し、人間の主体性が否定され、まるで歯車の一部のようにされる機械技術による疎外[7]などである。
ただし、唯物論的な歴史観(唯物史観)を確立した後、マルクス、エンゲルスは「疎外」という用語をほとんど使っていない。
マルクスは『資本論』の中で、資本主義に内在するさまざまな矛盾点や問題点を考察する一方、資本主義そのものは社会の生産性を高めるために必要な段階と捉えており、資本主義経済の発展・成熟とそれに伴う恐慌、階級闘争の激化などを契機として、革命が起こり共産主義へと移行すると考えていた。マルクスが共産主義革命の前提としていたのは、当時のイギリス、ドイツ、フランスなどに代表される西欧の成熟した資本主義的生産様式であった。しかし、実際に社会主義革命が成功したのはロシア、中国、キューバなど資本主義の発展の遅れた国々であった。
マルクス経済学を参照。
マルクスは、学生時代にヘーゲル哲学を研究するかたわら、詩作を試みた時期があった。愛をうたった詩も多い。1837年(19歳)のときにノートに書いた「絶望者の祈り」[8]という詩は、「運命の呪いと軛だけを残して何から何まで取上げた」神への復讐というフレーズで始まっている。
マルクスは26歳のとき、論文『ヘーゲル法哲学批判序論』のなかで次のように述べている[9]。
宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである
この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。阿片は中毒を引き起こす麻薬であるとともに、当時、緩和医療での疼痛などの痛み止めとしても使用されていた。
ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに対し、26歳のマルクスは、私有制のエゴイズムが金銭崇拝と商人根性をユダヤ人に教えるのであり、改宗は無意味である。必要なのは人間をエゴイズムから解放することである、と反論している(『ユダヤ人問題によせて』)[10]。
マルクス自身はフォイエルバッハから影響を受けて無神論的になり、社会や歴史を形成する原理は宗教的理念ではなく、究極的には経済に求めるべきと考えた。
ギリシャ悲劇、シェイクスピアなどの劇文学を愛好した[11]。
マルクスは主著『資本論』を第1巻しか完成できなかった。第2巻と第3巻はマルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集したものである。それらの序文でエンゲルスは、未完成の草稿からまとまった著作を作りあげる苦労を語っている。またマルクスの原文をできるだけ忠実に再現し、追加や書き換えは最小限にとどめるという編集方針を述べている[12]。
ソビエト連邦成立後、マルクスの著作はソ連共産党のマルクス=レーニン主義研究所で編纂され出版された。
マルクスの遺稿に手を加えたり、見出しをつけたり、並べ替えたりして出版されたこともあった[13]。
現存するすべてのマルクスの自筆原稿、公刊された著作の各版、および手紙類までふくめて再現する新『マルクス=エンゲルス全集』が、旧東独のマルクス=レーニン主義研究所により刊行されてきた。現在は国際マルクス/エンゲルス財団により刊行が続けられている。たとえば『資本論』第1巻ではドイツ語版初版と第2版、フランス語版などが別々に収録されており、第2巻と第3巻の各草稿もすべてが収録される予定である。そこで公刊されたマルクスの資本論草稿の一部は『資本の流通過程』『資本論草稿集1~9』(大月書店)として日本語訳されている。
ほか
マルクス主義 |
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マルクス経済学(マルクスけいざいがく、英語:Marxian economics)は、カール・マルクスの主著『資本論』において展開された、経済学の諸カテゴリー及び方法論に依拠した経済学の体系である。
マルクスは、アダム・スミス、デヴィッド・リカードらのいわゆるイギリス古典派経済学の諸成果、殊にその労働価値説を批判的に継承し、「剰余価値」概念を確立するとともに、その剰余価値論によって資本の本質を分析し、同時に古典派経済学の視界を越えて、資本主義の歴史的性格をその内的構成から解明しようとした。
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マルクスが『資本論』で用いた方法は、資本主義社会全体の混沌とした表象を念頭におき、分析と総合によって資本概念を確定し、豊かな表象を分析しながら一歩一歩資本概念を豊かにしていくことを通じて、資本主義社会の全体像を概念的に再構成するという、分析と総合を基礎とする弁証法的方法である。
「表象された具体的なものから、ますますより希薄な抽象的なものにすすみ、ついには、もっとも単純な諸規定にまで到達するであろう。そこからこんどは、ふたたびあともどりの旅が始まるはずであって、最後に再び人口にまで到達するであろう。だがこんど到達するのは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの諸規定と諸関連をともなった豊かな総体としての人口である」(マルクス『経済学批判序説』)。
これがマルクスが『資本論』で用いた「上昇・下降」と言われる方法、ヘーゲル弁証法の批判的継承とされているものの核心の一つで、その方法の核心は、唯物論を基礎とする分析と総合による対象の概念的再構成である。
『資本論』のサブタイトルが「経済学批判」であるのは、当時の主流であった古典派経済学とそれを受け継いだ経済学(マルクスの謂いによれば「俗流経済学」)への批判を通じて自説を打ち立てたからである。マルクスが『資本論』において、古典派を批判したその中心点は、古典派が資本主義社会が歴史的性格を持つことを見ずに、「自然社会」と呼んで、あたかもそれを普遍的な社会体制であるかのように見なしたという点にある。すなわち資本主義社会は歴史のある時点で必然的に生成し、発展し、やがて次の社会制度へと発展的に解消されていく、という「歴史性」を見ていないという。
マルクスは『資本論』第1巻の「あとがき」において、このことをヘーゲル弁証法に言及しながら、こう述べた。「その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌わしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」。
マルクスは、商品の価値はその生産に費された労働の量によって決まる、という古典派経済学の労働価値説を継承した。その上で彼は労働力の概念を導入し、剰余価値説を打ちたてた。資本家と労働者の間で売買されるのは労働ではなくて労働力であり、資本家は労働力を使って賃金分を越える価値を生み出すこと、その超過分である剰余価値こそ資本の利潤の源泉であることを明らかにした。
マルクスによれば、商品は二つの価値、すなわち消費することによって直接人間の役に立つ(消費者の精神的・肉体的欲求を満たす)という意味での使用価値 (use-value)、他の商品と交換可能であるという意味での、交換可能な他の商品との量的比率で表される交換価値 (exchange-value) をもつ。なお、貨幣(money)の一定量として表現された交換価値が価格(price) である(貨幣については後述する)。この交換価値または価格の本質が、価値である。
商品生産社会においては、(存在する場合には貨幣を媒介として)二つの商品が交換される際には、等価交換が原則となる。すなわち、人々は交換される二つの商品が等しい価値となるよう意識し、これが商品交換を規制する。したがって、価値とは商品生産社会に必然的に発生する社会的観念である。
では、二商品が等価であるとは何を基準として測られるのか。言い換えれば、価値の実体は何か。それは商品の生産に費やした労働の量、しかも、使用価値を生産するための労働の具体性を捨象した、単なる人間の労働力の支出としての抽象的人間労働の量である。この量は客観的に、その商品を生産するのに社会的平均的に必要な労働時間によって測られる。マルクス経済学は、商品の価値は、商品生産に必要な労働量によって客観的に決まるとする労働価値説を古典派経済学から継承している。
商品の価値は、物としての商品に予め備わる属性ではない。物としての商品に価値が予め備わっているという考えが、マルクスが批判した商品の物神性である。マルクス経済学で扱う価値とは、物が商品として社会的に取り扱われたときに、社会から受け取る属性である。たとえばここにトマトがあり、これが商品として300円で販売されれば、それは300円分の交換価値をもつ商品であると証明される。しかし同じトマトが自家生産されて自分の家の食卓に消費対象として並んでいれば、本人の自己満足としての使用価値しか生ぜず、それは商品でもなく、従って経済的価値(交換価値)をもたない。
また、マルクス経済学では、価値=貨幣ではない。発展した商品生産社会では、すべての商品の価値は貨幣の一定量によって表現されるが、このことは価値=貨幣を意味しない。たしかに、貨幣はいかなる商品とも交換可能であり、すべての商品の価値を表現できる一般的等価物である。ここから、貨幣そのものが価値である、とする観念が生まれる(貨幣の物神性)。
マルクスによる貨幣の説明はこうである。どの商品も、自分の価値を単独で表現することはできず、等価関係におかれた他の商品の使用価値量でしか表現できない。ある商品の使用価値量でもって、他のすべての商品の価値を表現するとき、この特殊な役割の商品が貨幣となり、貨幣の役割をする商品には、他のすべての商品との交換可能性が与えられる。したがって、貨幣とは、社会の諸商品の価値を統一的に表現するために、ある商品に与えられた一般的等価物としての役割である。歴史的には、金 (gold) が貨幣の役割を担ってきた。貨幣に一般的等価物の役割を与えて、貨幣の使用価値量(金ならばその重量)でもって、他のすべての商品の価値を表現させ、価格表現を可能にさせるのは、商品生産社会である。したがって貨幣も社会的産物である。
マルクス経済学における商品の価値とは、商品生産社会で必然的に発生する社会的観念である。等価交換の基準となる価値という社会的観念の存在は、商品の生産に必要な労働量によって、商品の交換価値または価格の変動が規制されることを意味する。これが価値法則である。貨幣商品の使用価値の一定量として、商品の価格として表現されるところの価値、直接には目に見えず価格として現象しながらも、価格の変動を規制する法則としての価値、これがマルクス経済学における価値である。
このようにマルクス経済学では近代経済学と違い、価値と価格を厳密に区別し、価値から貨幣と価格を説明する。
労働価値説を前提とすれば、剰余価値は労働時間に比例して大きくなり、多くの労働力を使えば多くの剰余価値を得ることになる。しかし、投下資本に対する利潤率は市場における競争の結果として平均的な水準に落ち着き、資本の大きさに応じて利潤量が決まる傾向がある。これを平均利潤といい、19世紀資本主義で経験された事実であった。この平均利潤の事実と剰余価値の理論が矛盾するとして問題になった。
同じ大きさの資本を、ある資本家は生産手段に多く投下し、他の資本家は労働力に多く投下したとしても、両者が得る利潤は同量となる。例えば、資本家Aは生産手段に60・労働力に40を投下してシャツを生産し、資本家Bは生産手段に80・労働力に20を投下して綿布を生産したとしよう。剰余価値率が100%ならば、資本家Aの下で生み出される剰余価値は40、資本家Bの下で生み出される剰余価値は20となり、Aの2倍になる。しかし、資本家Aが資本家Bの2倍の利潤を得るということはありえない。平均利潤率を30%とするなら、資本家Aも資本家Bも同額の資本100に対して同額の利潤30を得るのである。よって利潤は剰余価値と矛盾するように見える。これはリカードを悩ませた問題である。
マルクスは、生産性の低い資本家Aから生産性の高い資本家Bに、剰余価値が10だけ移転している、と説明する。資本家Aの取得する利潤は剰余価値40-10=30、資本家Bの取得する利潤は20+10=30、全体として見れば、総利潤=総剰余価値=60となり、価値法則は貫徹されることになる。したがって、剰余価値と利潤の食い違いは、見かけ上の矛盾にすぎない。しかし、この外観上の矛盾が理論の矛盾とされ、後に転形問題として議論されることになった。
なお、平均利潤が成立する条件は、部門間の資本移動を可能とする自由競争であり、20世紀になって独占が形成され、自由競争と部門間の資本移動が困難となったもとでは、平均利潤が成立する条件は失われているという見解が、マルクス経済学の中にある(見田石介『価値および生産価格の研究』)。
マルクスが分析の対象とし、『資本論』で理論化したのは、当時最も発展した資本主義国であった19世紀イギリス資本主義であり、20世紀以後飛躍的に発展した資本主義を十分にとらえてはいないという時代的制約を持っている。 マルクス以後のマルクス経済学の代表的な著作としては、ルドルフ・ヒルファーディングの『金融資本論』や、レーニンの『帝国主義論』がある。
歴史観では、ヘーゲルの弁証法とフォイエルバッハの唯物論を採り入れた唯物史観を唱え、下部構造(経済的要因、つまり生産力と生産関係の矛盾)が上部構造(政治体制など)を変化させる動因とした。資本主義の矛盾は、その延命のための帝国主義、第三世界への搾取の激化(従属理論)、政府と金融が独占資本と協調して危機を管理する国家独占資本主義などを生むとした。現在(第一次世界大戦以降)の資本主義は国家独占資本主義であると規定される。
最終的に資本主義はその内在する矛盾によって社会主義革命を誘発し、労働者階級のプロレタリア独裁を経て階級のない共産主義に必然的に至ると考えた。
しかし、現実の歴史上、資本主義の成熟した先進資本主義国で本格的な社会主義革命は起きていない。各国の国家独占資本主義は恐慌を克服し革命の危機を回避するために福祉の充実、ケインズ政策による有効需要の創出といった政策を採用し、議会制民主主義の下での社会民主主義の台頭などにより社会主義革命は基本的に回避されたと考えられている。むしろ、後進国のロシアや中国、低開発国のインドシナ諸国などで社会主義革命が起きており、多くの議論を呼んでいる。
マルクス経済学の2つの立場として、
がある。
日本では、現在マルクス経済学の学派は、大きく分けて次の4つである。
日本の経済学界では戦後しばらく講座派、労農派らによるマルクス経済学が主流であり、終戦直後の傾斜生産方式による戦後復興はマルクス経済学者(有沢広巳)による発案である。
また、日本の経済史の分野においては、経済の有機的類型化の把握手法と経済体制の発展と矛盾の弁証法的記述において、現在も研究が続けられている。
派遣切りがきっかけとなった、マルクスの再評価
~資本主義経済は失業者を生み出すとマルクスは予言した~
前回取り上げたアダム・スミスは、市場=マーケットを大事にする自由放任を唱えました。しかし、19世紀のヨーロッパ、とりわけイギリスの労働者の悲惨な状況を目にして、本当に資本主義経済はうまくいくのだろうか、さまざまな問題を引き起こしているのではないか、資本主義は間違っている、これを何とかしなければならないと新しい経済理論を打ち立てたのが、社会主義の父、カール・マルクスです。
マルクスの理論によってたくさんの社会主義国が生まれました。著書である『資本論』は、第2次世界大戦前から日本語訳が出版されていましたが、戦後は日本語訳が何種類も出て非常に売れました。昔はベストセラーとしてどこの本屋にも必ず置いてありました。
マルクスは、第1巻を書いたあと、2巻、3巻の執筆途中で亡くなります。死後、親友だったエンゲルスがマルクスの遺志を継いでこれを完成させました。そのため1巻と2巻・3巻ではまったく文章が違います。マルクスが資本主義とは一体どんな経済体制なのかを分析したのは1巻なので、とりあえず第1巻に目を通しておけばマルクスの考え方はわかります。それはどのようなものなのでしょうか。
資本主義経済においては、激しい競争に打ち勝っていかなければならないので、資本家は利益を追い求めます。その結果、労働者を低賃金で長時間働かせることになります。こうして資本家が大金持ちになっていく一方で、ひたすら働かされる多くの貧しい労働者が生まれていきます。やがて資本家と労働者のあいだに激しい闘争が起きるようになります。ついには多くの労働者が立ち上がって革命を起こし、資本主義が崩壊する。ざっくり言ってしまうと、これがマルクスの『資本論』の考え方です。
ところがソ連が崩壊し、東ヨーロッパの国々も次々に社会主義を放棄すると、マルクスは死んだ、時代遅れだと言われるようになりました。いまでは日本の大学でもマルクス経済学を教えている先生は非常に少なくなりました。
しかし、2008年のリーマン・ショック以降、派遣切りが相次ぎ、多くの失業者が出ました。これをきっかけに、彼が『資本論』の中で予言した労働者の状態がいま再現されているのではないかと言われ、マルクスの再評価が始まっています。マルクスは、一体どのようなことを予言していたのでしょうか?
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資本家は労働者を搾取し、利益を生み出している
~マルクスが分析した資本主義のメカニズム~
資本主義経済における競争に勝つためには、資本家はとにかく利益を出さなければなりませんが、利益というのは誰が生み出しているのでしょうか。マルクスは、利益は労働者が働くことによって生み出されると考えました。そして、労働者に労働力の分だけ賃金を払っていながら利益を生み出しているということは、資本家は労働者を搾取しているのだ、と考えたのです。どういうことか、見ていきましょう。
まず労働には「必要労働」と「剰余労働」があると考えます。労働者が働いて生み出した利益のうち、労働者へ給料として支払われる部分が必要労働です。一方、資本家の利潤となる部分、これが剰余労働です。
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したがって利益を増やすためには、剰余労働の時間を増やす必要があります。剰余労働を増やす一番単純なやり方は、労働者に残業をさせることです。給料はそのままで剰余労働時間を2時間増やせば、支払う給料はそのままで利益を増やすことができます。これを「絶対的剰余価値」と言います。
もうひとつ剰余労働を生み出す方法として、必要労働を減らすというやり方があります。この方法では、全体の労働時間を変えずに剰余労働を増やすことができます。これを「相対的剰余価値」と言います。
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必要労働を減らすために、たとえばこれまで人間が行っていた作業をどんどん機械に切り替えます。機械化によって労働生産性を高めると、労働者の数は少なくて済みます。つまり、過剰労働人口を生み出すのです。
マルクスはこの過剰労働人口を産業予備軍と呼びました。これは普通の言葉で言えば失業者です。資本主義経済のもとでは、企業は労働者のコストを下げたい、そのために大量の失業者が出るように仕向けようと考えます。失業者は何としてでも働きたいと思うので、企業は安い給料で労働者を雇うことができるからです。あえて産業予備軍をつくり出すことによって、労働者に支払う給料のコストを下げることができる。マルクスはこのように資本主義を分析しました。
労働者たちの革命による社会主義国家の誕生
~自由競争をやめ、計画経済による理想の社会を目指した~
こうして資本家がどんどん安い給料で大勢の人を働かせることによって、資本家のもとにはたくさんの資本が蓄積されます。一方で、失業者はどんどん増えていきます。その結果、失業者には窮乏の蓄積がされます。つまり貧困です。これこそまさに格差社会です。
一方で労働者が減らされることによって、工場で働かされている労働者は少数精鋭になっていきます。労働者の能力が以前よりも高まっていくわけです。実はマルクスは資本主義をまったくの悪とは書いていません。労働者の数が減り高度な仕事をしなければならなくなることによって、労働者の能力が高まっていくと書いているのです。
やがて工場ではみんなで協力して仕事をするようになり、職場ではリーダーが生まれ、そのリーダーのもとで労働者が組織化されていく。そのような中で労働者たちは資本家によって搾取されているんだという自覚を持つようになります。そして貧困にあえぐ失業者と、資本家のもとで能力が高められ組織力を持った労働者が一体となって革命を起こす。そして資本家を追い出し、自分たちで社会主義計画経済を行う。これがマルクスの考えた資本主義の顛末です。このマルクスの社会主義の理論に共鳴した人々が、世界中で共産党という組織をつくり、共産主義運動をしていきます。ロシアではレーニンが革命を起こし、ソビエト社会主義共和国連邦という国ができました。
さて、社会主義と共産主義の違いは何でしょうか。社会主義というのは現実にある制度、共産主義というのは将来の理想の社会と考えることができます。労働者がいくら働いてもそれに見合っただけの賃金がもらえず搾取されている、これが資本主義でしたね。それに対してマルクスやレーニンの考え方では、社会主義になると労働に応じて正当な賃金がもらえるようになる、さらに共産主義になれば、生産力がさらに発展して必要に応じて好きなだけもらえるようになると考えます。レーニンは、最終的にはトイレの便器は金でつくられることになるだろうと言っています。共産主義ではそれくらい人々が何でももらえて豊かな暮らしができるようになるということです。そうなると、国と国との争いごとはなくなってくるので、そもそも国家というものがなくなってくる。よく共産主義国家という言い方がされますが、あれは形容矛盾でおかしいんです。共産主義では国家は存在しないというのが建前なのです。
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社会主義国家、それから国家がなくなった共産主義というふうに考えると、共産主義というのはユートピアだということがわかりますね。社会主義の先に共産主義がある。社会主義国家では、共産主義に向けてがんばれ、がんばれと労働者が尻をたたかれる、ということになります。
理想の社会を目指した社会主義国家は、なぜ崩壊してしまったのでしょうか?続きは書籍で詳しく解説しています。
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